第1講
日本の近代化
日本の近代化は、明治政府の主導によって始められた。
政府は、紡績.鉱業.鉄鋼.造船.鉄道などの近代西欧技術や産業を、また郵便.電信.電話などの制度や組織も導入された制度の中で、とりわけ重要なものに株式会社がある。
1870年代においては、株式会社は西欧社会でもまだ支配的ではなく、多く企業は依然としてパートナーシップ(合名会社)であった。パートナーシップとは無限責任を持つ出資者が二人以上いる企業のことで、かのスタンダードオイル社、三井本社がその代表例である。この明治10年代(1877年~1886年)に、日本ではすでに大阪紡績(現在東洋紡績)や日本鉄道(後に国鉄に吸収されて東北本線となる)といった大規模な株式会社が存在していたのである。1878年(明治11年)に、兜町に東京株式取引所が開設されていたということは、当時すでに取引所に上場されるに十分な数の株式会社があったことを意味している。
日本は近代産業発展の初期の段階から、正負による公共部門と同様に、株式会社などによる民間部門が大きな役割を果たしていたということができる。このように日本の株式会社が、初期の段階から発展した理由としては、個人では責任の負えない、未経験でリスクの大きい西欧技術を輸入するには大資本が必要であったが、国がすべてに事業を推し進める余裕がなかったこととあわせて、福沢諭吉などの啓蒙家たちが、近代化.西欧化のために株式会社を創設するよう、強く実業界に勧めたことがあげられる。
実業界の先駆者の一人である渋沢栄一は、英国企業と競争できる綿紡工業の必要性を説いて、30人の華族から資金を集め、これを核として旧士族にその所有する公債を出資させることに成功し、これによって大阪紡績株式会社を創建した。明治政府直営であった富岡紡績などの2000錘紡績と比べ、1万錘の大阪紡績は国際競争力を持つ企業となり、日本の産業革命はここに始まったといわれている。
この産業革命を通じて、高等教育を受けたものを雇用していたいくつの会社が外国の技術情報を独占するようになり、あとに総合商社を持つ財閥となっていくのである。三井.三菱.住友などがその例である。
明治時代、日本の産業革命が始まったころ「富国強兵」「殖産興業」が日本近代化の国民的スローガンであった。が、この国是のもとで、企業によって重要な日本的特徴が育成されることになる。その第一の特徴は、大会社が家族経営ではなく、それ故に公共的に経営される傾向にあった、ということである。
企業経営は私的なことではなく、一種の奉公であった。欧州においては、銀行を除けば実業が優秀な大学卒業生を採用することの少なかった時代に、日本の実業界はその初期段階から帝国大学(現在の東京大学.
京都大学一部国立大学)、商法講習所(現在の一橋大学)、慶應義塾などの卒業生をひきつけていたのである。
第2特徴は、1932年に出版されたバーリとミーズの『近代株式会社と私有財産』でいう「所有と経営の分離」状況が、日本の初期株式会社にすでに存在していたということである。たとえば、財閥である三井家の人たちは、多くの会社を所有してはいたが、経営は学卒者である優秀な番頭.大番頭に任せていて、経営の出しすることは少なかったといわれる。この伝統は現代でも生きているといってよく、日本の企業は株主に利益を配当するよりは、内部留保や設備投資のほうを重要視する傾向を持っている。
1960年代の高度経済成長期に、企業経営者が配当を抑え、自由に設備投資を行うことができた背景には、上記のような事情がある。もっとも株主にしてみると、当時は配当額にこだわらずとも株価の値上がりによって、十二分に補償されていた事情もあった。
日本における株主と経営者との関係は、以上のように始めから経営者優位であった。