第7講 日本における技術開発

  天然資源に恵まれていない日本にとって、優れた技術を使って効率的な生産を達成していくということは極めて重要であり、こうした要請のもとに、日本の技術は急速な発展を遂げてきている。

  その出発点は、明治時代以降の積極的な技術導入にさかのぼることができる。すなわち、徳川幕府200年にわたる鎖国政策により、日本の工業技術水準は欧米の先進資本主義諸国に比べて著しく低い状態にあったが、そうした状態を克服して国際競争に伍していくために、各産業分野において積極的な技術導入が図られた。

  こうして、明治時代半ばには、鉄道業・海運業・織物工業などを中心として産業革命が達成され、以後幾多の曲折を経ながらも、日本は「技術立国」としての道を歩んできたのである。この場合、もっとも重要な点は、日本では他の諸国に比べて、比較的容易に技術発展が達成されたという社会的背景である。

  確かに明治初年の日本は欧州型近代技術において劣っていたが、伝統的職人技能は非常に高いものがあった。後の美術史家がジャパネスクと呼んだ細密で精緻な工芸技術、木工・陶芸・絵画など美術的な技能のほか、大工を中心とする実用技術は、現在でも評価されるべき高度なものであった。ただ、西欧近代の技術が存在していなかっただけである。職人の社会的地位は低くなく、高度な技能を持った匠は名人として尊敬され、この点はアジアの近隣諸国と異なっている。この伝統の上に新しい近代西欧技術が導入されたとき、それを担う人々が社会的地位も高く畏敬されたのは当然であろう。

  日本は上流階級のエリートたちが下の階級の人々に教育の機会を与えることを躊躇する社会ではない。貧しくとも能力のある少年には成功の機会があったし、村の小学校の校長は、村長の次、村の医師と並んで尊敬される地位にあった。

  教育制度は近代日本発展のために決定的役割を果たしたと主張する歴史学者は多いが、その教育の中で、とりわけ重視されたの一つは技術の背景となる数学であった。それは基礎的教育の必須科目であった。

  もっとも数学は、江戸時代の寺子屋教育の時から「読み・書き・そろばん」といわれ、三つの重要科目の一つであった。このような伝統のもとに、戦前における産業界の労働者は米国の平均的な労働者よりはるかに優れた基礎教育を受けてきた。さらに、大学教育を受けた技術者は工業士として尊敬されたから、多くの優れた人材が進んでこの道を志し、西洋技術を学ぶ伝統もできあがったのである。戦後になってもこの伝統は受け継がれ、大学の工学部の卒業生は戦後10年で2倍になった。また、企業内部でも長く技術者教育が行われてきた。このような企業内教育の努力によって、各企業が独自の技能が開発された。国鉄(現JR)には国鉄の、日立には日立の技能があるといわれている。

  しかし、戦前の工業を総合的に見れば、職工に技能は優れていたが、生産技術は、ごく一部分の鉄鋼・造船・機械・綿紡が国際水準に達しているにすぐなかった。

  第二次世界大戦の敗戦によって、日本経済は壊滅的な打撃をこうむったが、日本人は勇気ではなく技術力の差によって敗戦に導かれたことを教訓とした。経済の復興と成長に際しては、欧米技術の導入や技術提携が活発になされ、重化学工業部門を中心に設備の近代化と効率的な生産体制が整えられた。

  その際、特筆すべきことは、日本の企業が海外技術の導入や模倣にとどまらず、自らの生産条件に合致するような工夫や改良を施した点である。そうすることによって、品質や生産コストが国際水準に達し、日本は先進工業国の仲間入りをすることができたのである。日本がOECDに参加したのは1964年のことであった。この時までの日本の技術は、何よりもまず改良技術として特徴づけられる。

  1950年代の自動車産業の事例を見てみよう。たとえば、日産は英国オースチン、日野は英国ヒルマン、いすずは仏国ルノーを提携先に選んだ。日産はノックダウン方式による7年間の技術援助契約のあと、学んだものと独自の技術を統合して自社のモデルを発表した。トヨタはフォードと技術援助契約の締結に達することができず、独自でモデルを開発せざるを得なかった。

  技術は実戦を通じて徐々に改良される。日産はオースチンの1500ccのエンジンのストロークを短くするというドナルド・ストーン顧問の提案によって1000ccのストーンエンジンを開発した。トヨタは部品メーカー・関連会社を統合する手法としてかんばん(カンバン)方式を開発した。

  このジャスト・イン・タイム(JIT)・システム(かんばん方式)はその後、日本中の自動車メーカーにも採用され、不用な書類、スタッフの節約、在庫の削減に役立っている。この方式が生み出したQCサークル・小集団活動は自動車メーカーのみならず、日本の全産業に及んでいるといっても過言ではない。

  最近の10年間の例を見てみよう。製品の軽量化・小型化と呼ばれる傾向が、継続している。それはME(マイクロエレクトロニクス)化とも結合して、軽薄短小と呼ばれる産業構造の変動にまで発展している。もともと日本の文化は「縮みの文化」といわれ、細かいことを上手にやることが得意である。盆栽や造園はその例であるが、農民が一所懸命に丹精する耕作精神と同じように、工場労働者も小型乗用車・ウォークマン・テープレコーダ・カメラ・クォーツ時計・LSI(大規模集積回路)などの製作に当たった。

  更に日本人は、異種分野を結合する応用技術に優れている。工場内でも、労働移動をするのが普通であり、その結果労働者多能工であるから、一つに仕事にこだわることが少ない。この点は欧米の職種別単能工とは明確に異なっている。

  機械とエレクトロニクスを結びつけたVTR、通信と機械を結びつけたファクシミリ、写真と機械の組み合わせである複写機はその成功例である。

  ところで、従来の改良技術中心の技術開発は、現在、新たな段階に直面している。技術者・技能者の層の厚さから生じる技術改良の積み重ねは、確かに有効に作用してきたし、これからも作用するであろう。しかし、輸入したいとする技術が次第に少なくなり、逆に技術供与が多くなるような現在の状況下では、自ら革新的な技術を開発しなければならない。たとえ、「魅力的な」導入技術が存在したとしても、現在では金銭導入ではなく、見返りの技術を要求されるクロスライセンスの形態をとるものが多い。

  というのは、たとえば、かつてソニーが、ベル研究所よりトランジスター特許を金銭導入して、それを改良して小型ラジオを発表して大成功を収めたような事例は、外国の技術保有者に、日本企業への技術供与に対する警戒心を抱かせたからである。その意味でも、自社技術開発の必要性は高まりこそすれ、低くなることはまず考えられない。特にめざましい分野は、エレクトロニクス・新素材・バイオテクノロジーといったハイテク産業であり、その中のエレクトロニクス技術は、単に生産の自動化、事務処理の迅速化のみならず、医療や一般家庭生活にも大きな影響を与える至っている。

  技術研究は比較的時間を要する基礎研究と、比較的資金を要する応用研究、されに、その中間の開発研究に3分類される。日本が従来の応用研究中心の研究開発から基礎研究中心に移行する時期にきているには事実で、政府の研究所が新しく開設されたり、つくば研究学園都市ができたりしている。更に各会社は従来の中央研究所に加えて基礎研究所を開設しつつある。

  また応用研究もユーザーと結びついた新分野が注目されており、鉄鋼メーカーが自動車メーカーと結びついた、柔らかく加工しやすく、かつ強度のある鋼板の開発はその好例である。柔らかい鋼板を加工したあと、強度を与えるためのエイジングは、自動車メーカーの塗装工程の熱を利用したものである。

  このように技術開発は、一方では技術そのものの原理的発展・工学的発展からもたらされる製品技術の開発であり、他方、工程・作り方の開発を目指す生産の開発である。両者がうまく結合した時に、新たな「技術立国」への道が開けよう。