第9講 産業政策
「産業政策」の定義は、学者によってまちまちであるが、「産業に対する政府・地方自治体の公的介入」とすれば、まず差し支えないであろう。
「産業政策」に関して、ごく最近まで、明確な概念の定義や分析はもちろん、それに対応する語(industrial
policy)も外国ではあまり使われることはなかった。つまり、「産業政策」とは日本特有の用語であり、その意味するところも戦後日本の高度経済成長を主導した「政府、産業相互依存体制下の産業保護・育成政策」をさすことから始まったのである。今日では、産業政策は世界各国で広く採用され、自明なものとして政策当局者から学者に至るまで幅広く日常的に使われるようになった。
日本の経済成長の一つの要因として注目されてきた戦後日本の産業政策は、次のように3段階の流れとして行われた。第1段階は、終戦から1950年代までの経済復興期での産業政策である。
戦後、日本経済における産業に対する政策は、周知にように、農地改革(1945、46年)、財閥解体(1948年)労働運動の解放(1947年)の三つを柱とする「経済民主化」政策によって開始された。
生産力復興のための「傾斜生産方式」(1946年)が実施され、復興金融公庫(1947年)による石炭・鉄鋼などへの優先的・重点的融資、財政面からの価格補助金制度、外貨割当ての実施などによって、経済復興を図った。また「企業合理化促進法」(1952年)による特別償却制度などになり、産業の近代化・合理化の推進を図り、経済自立基盤の確立を行った。
さらに50年代後半における石油化学工業の育成政策(1955年)、石炭工業合理化臨時措置法(1955年)、日本合成ゴム製造事業特別措置法、機械工業振興臨時措置法(1956年)、電子工業振興臨時措置法(1957年)などの諸政策が「もはや戦後ではない」<1956年経済白書>といわせるほどの経済成長有力な後ろ楯になったのはいうまでもない。
第2段階の1960年代の産業政策は、資本自由化と貿易自由化を実施して、日本経済を国際秩序に適応させることと、産業対外競争力の強化が課題になった。
このため、産業構造の長期ビジョン(産業構造調査会「開放経済下の産業構造のあり方」、1963年)が始めて策定され、日本の輸出を伸ばし、高い経済成長を実現するための方策が探られた。そして、それまでの基幹産業の合理化政策が実施されたほか、自動車・石油化学・合成ゴム・合成繊維・電子工業・機械工業・航空機工業などの新規産業の育成を図る産業全体の重化学工業化政策が強力に推進された。
具体的には、第一産業ごとに官民協調によって価格メカニズムによる調整が行われ、また人為的な調整を行い得るようにしたことである。設備投資の調整は、その典型である。第二には、従来、重要産業で共通した欠点とみられていた規模の問題、つまり国際的にみると日本企業の規模が小さすぎる問題を克服するよう、寡占化政策を推進することであった。八幡製鉄と富士製鉄の合併(1970年)により、新日本製鉄が成立したのは、この政策の一環であった。
更に1964年に、日本はIMF8条国へ移行し、OECDへ加盟したことによって、資本に自由化を強制されることになった。資本自由化は、貿易自由化より一層の危機感、外資によって日本企業が乗っ取られるのではないかという危惧、を日本の産業界に与えるものとなった。
この問題意識は、産業再編成論を生み出し、行政指導による技術開発力の強化、大型設備導入による産業の効率化と国際競争力の強化を目標とした「構造改善政策」に実施を導くことになった。また、このような重化学工業化の実現に当たっては、業界に対して優先的資金供給、特別償却などの支援があり、積極的な技術導入が行われた。設備投資は毎年20%を超える伸びを示し、毎年10%を超える高度経済成長が達成されて、60年代後半には日本の国際収支の黒字が定着したのである。
第3段階の70年代以降の産業政策はなしくずし的の転換を特徴としている。70年代の日本経済は「ニクソンショック」(1971年)、「石油危機」(1973年)などによって、それまでの戦後の経済成長を可能とした与件が大きく変化した。
このため、日本経済は、成長率の低下と国内の産業調整とを余儀なくされ、また国際摩擦に伴う国際間の産業調整に直面することになった。さらに1971~73年に4台公害裁判を契機として、自然環境保護を従とする産業化から自然環境保護を主とする産業化へと転換を余儀なくされ、環境問題への対応を重視せざるを得なくなった。重化学協業から新たに知識集約分野へと転換しなければならなかった。知識集約型の産業としては、コンピュータ・NC工作機械などの高度組立産業やファッション産業などがあげられるが、同時にそれ以外の産業についても研究開発やファッション化を進め、知識集約化を図るべきだとされた。
70年代以降の産業政策は、高度成長期の終わりごろから、公害などの「成長の代価」への対応、国際通貨危機や石油危機への対応、それらの国際経済危機に伴って発生した。国内的・国際的な調整という「受動的・消極的」な政策を中心とするに至った。これらはまさに産業政策を取り巻く政策環境に変化を反映している。
そして、70年代以降の政府及び産業のそれぞれの置かれている状況を考慮すると、「官民協調」の合意点は、これからはハードな生産政策(補助金・融資・税制などの政策手段を駆使した政策)よりは、ソフトな産業政策(情報の提供による民間企業の誘導を中心とする政策)の点にあるといえる。その結果、産業構造の長期展望や国際経済についての情報の提示が産業政策の中心となった。
たとえば、超LSI(大規模集積回路)技術研究組合(超L研)は、1976年から79年にかけて、五つの半導体企業(富士通・日立・三菱電機・日電・東芝)によって結成された。この研究機関は、超LSI製造に必要とされる微細加工技術など1000を超える特許を生み出すなどの成果をあげたのである。ここでは補助金などのハードな政策よりも、民間の協調的な研究開発を助成するソフト面での政府の政策が果たした役割が、大きかったといわれている。
日本の産業構造の国際的調整の中で、産業政策がこれからどの程度有効かは、今後に課題である。
以上のように、「戦後」の産業政策の流れを見ると、一つは、幼稚産業の保護と産業化の促進という産業保護育成政策であり、もう一つは、国際化と産業体制の整備、さらにルール型の規制政策の導入と産業調整政策が行われたことがわかる。また、このような産業政策の主題の変化は、「戦後」の日本経済の発展段階と成熟度および国内外の与件の変化をそのまま映し出したものということができる。
これまでの産業政策について、諸外国の評価は、一般に政府と産業が協調関係を保ちながら、政府が「日本株式会社」のトップ・マネジメント的役割を果たし、日本経済の「計画的」発展に貢献してきたとするものであった。それは、おそらく政府が、戦後の産業化の過程で、直接的・間接的介入や産業の利益の擁護を行うかのように見えたからであろう。
今日、日本の諸産業が国際的にも比較優位産業となり、多くの国々と貿易摩擦が発生するほどの競争力を持つようになった理由として、政府が産業化の過程で、産業や企業の進むべきガイドラインを提示したのは事実である。しかし、価格メカニズムの作用のもとで、多くの企業がイノベーションに励み、また企業家精神に富んだ多くの企業化が物語ることはできないであろう。